アクアリウムで自然を創ることは可能か

アクアリウムで自然を創ることは可能か

 ネイチャーアクアリウムはしばしば「まるで自然風景を切り取ったよう」だと言われる。たしかに多くの作者は、水槽内に自然の景色を再現しようとする。流木や石、水草などの天然素材のみを用いて、水中風景を再現することが重要であり、完成された作品を見ると部屋の中に実在する自然風景が現れたかのような感覚になる。再現されているのは見た目だけではない。土壌内の微生物や水流までも自然に近い環境を目指すのである。

 それでは水槽という小さな箱の中に実際の自然を完全に再現することは可能なのか。結論から言うとそれは可能であり不可能であると思う。とても曖昧な意見だが要するに捉え方によって答えが変わるということである。 

不可能な理由

 それではまずネイチャーアクアリウムで自然を再現することが不可能な理由を挙げてみる。それは水景を構成する素材の産地がバラバラな点である。多くのネイチャーアクアリウムはその見た目の芸術性を追求するがあまり水草の原産地にはこだわっていない。本来生息地の異なる水草が一つの水槽で使われていることは決して珍しいことではない。むしろ原産地にこだわらず見た目的にバランスの良い形や色彩を持った水草を選ばなければ美しいネイチャーアクアリウムを作ることは難しい。そしてそのような植生は自然界ではあり得ない。もちろん、同じ川や湖に生息している植物のみで構成されたネイチャーアクアリウムが存在しないわけではない。作り手が意識的に同じ産地の水草を選べば特定の水域を再現した作品が出来上がる。しかし、そこに使われている流木や土壌にまで意識を向けたときに、それらの素材までもが同産地であることはまずあり得ない。屁理屈のように聞こえるかもしれないが、自然とは今生きている生物だけで成り立っているわけではない。枯れた木から栄養をもらい新たな植物が芽吹く。そうして成長した草木が新たな命のよりどころになるのである。このように自然というのはその場所で長い年月をかけて現在の姿に変化したのである。それを水槽内で数ヶ月で再現することはできない。また、仮に全ての素材をアマゾン川産のもので揃えたとしても、日本の水道水を使えばそれはアマゾン川を完全再現したものとは言えない。そのためネイチャーアクアリウムではせめて見た目だけでも自然に近づけるように世界中の水草や流木を集めて人間の目に自然に見えるように作る。したがって本質的には自然を再現できているとはいえない。

可能な理由

 続いてネイチャーアクアリウムが自然を完全再現できる理由について考える。それは「人間も自然の一部なのだから人間が作るものはすべて自然である」という考え方である。これもまた屁理屈のような説だが、反論しようとすると意外と難しい。そもそもなぜ一部の人間がネイチャーアクアリウムという芸術作品を作るのかといえばそれは綺麗な景色を見て癒されたい、見る人を感動させたいという思いがあるからである。そのような人間の感情も自然界を生きる我々人類が進化の中で身につけたものであると考えることはできないだろうか。「人間という動物が地球のある場所から流木を集め、また別の場所から水草を集め、東京のマンションの一室でネイチャーアクアリウムを作る。」この文の「人間」の部分を別の動物に置き換えてみてほしい。作り手が人間ではない別の生き物であれば我々はそれは自然界での現象であると認知するが、作り手が人間になった瞬間「人工物」と捉え、他の自然現象からは切り離して考える癖がある。しかし、人工物と呼ばれるものでも自然の一部である人間が作ったものである。例えば蜂の巣は蜂にとっての「建築物」であるが、それを「蜂工物」と呼び自然物ではないと考える人は少ないだろう。なぜ人間だけ特別扱いなのか。

人間は特別な存在?

 人間も自然界の一員であり、人間が地球上で行うことはすべて自然なことである。この考え方に基けば、人間の抱える環境問題も自然現象の一部と捉えることができる。それは決して温暖化や森林破壊を「自然なこと」と肯定する意見ではないが、だからと言って人間に大きな責任を求める現在の風潮には疑問がある。人間も他の生き物と同じように生存し繁栄するために一所懸命知恵を絞ったのである。その結果都市開発や火力発電、森林伐採など少し他の生き物とアプローチや規模が異なっても、根本的な部分はやはり同じ地球の住民と共通している。太古の地球では、植物が繁栄して多くの二酸化炭素を消費したために温室効果が薄れ寒冷化が起きたことがある。これに対して植物に責任を求める人はまずいない。それを踏まえると昨今の人間を悪者にする論調には「人間も自然界の一部」であるという意識が欠けているように感じる。人間を批判し、自然環境の味方をしているようで、どこか「人間は他のどの生き物よりも影響力を持った大きな存在である」という一種の自惚れが見え隠れしているように感じる。これからはレジ袋を削減したり、電気の使用を控えたりといった「人間さえいなければ」と言わんばかりの消極的な対策にこだわるのではなく、新たな発電方法の開発などイノベーションを通して「人間らしく」環境問題を解決することを意識してみてはどうだろうか。

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